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弘法大師は宝亀5年(774)、現在の七十五番札所善通寺誕生院である、香川県屏風浦の佐伯家に生まれ、幼名を真魚(まお)といった。
幼少のころから高い教育を受けることのできる環境で育ち、儒教や文学、歴史などを学んだ。7歳のころ、捨身ケ嶽(七十三番札所出釈迦寺・奥ノ院)に登り、仏門に入り多くの人を救いたい、この願いがかなわないなら自分の命を捨てると、嶽から投身した。その時釈迦如来と天女が現れ、その身を助けたという伝説がある。
12歳のころ讃岐の国学で学び、15歳で叔父の阿刀大足に連れられ、京都に上った。18歳から大学の明経道に入学、仏教の指導も受けた。しかし、学問だけでは人々を救えないと、出家し修行に励んだ。阿波の太龍岳や室戸岬、石鎚山などで厳しい修行を重ね、22歳で受戒し名を空海と改めた。
やがて大日経の写本を見つけ、31歳の時、唐の国へ渡り、長安の青龍寺で恵果阿闍梨(けいかあじゃり)から、密教のすべてを学んだ。このとき「阿闍梨遍照金剛」の名をいただき、真言密教第八祖となり、2年間の留学を終えて帰国。
帰国後、1年あまりは九州にとどまり、唐で学んだ教えを広めた。翌年上京し真言宗開創の勅許を得る。
弘仁7年(816)には高野山に修行の場を移した。民衆の教育や、満濃池などの築造など、社会事業でも活躍している。「いろはにほへと・・・」のいろは歌を作ったのも弘法大師である。たくさんの仏教や文学の書も残しているが、弘法大師は国三筆の一人(残りの2人は嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)とされ、書の達人としても知られている。
承和2年(835)、弘法大師は高野山金剛峯寺において入定。62歳であった。

弘法大師が42歳のとき、四国八十八カ所の霊場を開いたとされている。また、弘法大師入定後、高弟真済がその遺跡を遍歴し始まったとされる説がある。八十八という数は、煩悩の数や、「米」の字を分解したもの、または男42、女33、子供13の厄年を合わせた数などという説がある。
札所を巡礼することを打つと言う。これは、昔の巡拝者が、自分の名前を書いた木札をお寺に「打ちつけていた」ことから使われていた言葉(今では納札にかわっている)。一番札所より始め、八十八番札所まで番号順に巡るのを順打ちと言い、逆に八十八番から一番へ、反対に巡礼するのを逆打ちと言う。「逆打ち」一回は「順打ち」三回相当のご利益、功徳があると言われている。「逆打ち」の始まりは、伊予国の衛門三郎が弘法大師に会いたい一心で、霊場を逆から廻ったのが始まりとされている。
すべての霊場を一遍に打ち上げるのを通し打ち、適当に区間を区切って打つのを区切り打ちという。一番札所からはじめる必要はなく、また一度に全ての寺をまわることもない。一国参りといって、一つの県を一国とし、まわることもある。
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四国を巡礼中の弘法大師が、ある日、愛媛県松山市の郊外の大きな屋敷に托鉢に訪れた。そこの主人の衛門三郎は強欲で、何度も訪れる乞食僧(大師)を追い払い、最後には大師が持っていた鉄鉢を8つに割ってしまう。その後、大師は訪れることがなかったが、三郎の子供八人が次々と亡くなった。そこで、三郎は托鉢に訪れた人が弘法大師と気づき、今までの自分の行いを悔い、大師を求めて遍路の旅にでた。しかし、簡単には会えない。二十数回目に、順番にまわるのをやめ、逆にまわりはじめる。心身とも疲れ果て、十二番の焼山寺で倒れてしまう。意識が遠のいていくときに、大師が現れ、罪を許してもらう。最後の望みとして、「今度、生まれ変わるときは、領主になりたい」と願った。そこで、大師から衛門三郎と書いた小石を授けられ、それを握ったまま死んでしまう。
その後、伊予の領主に男の子が産まれる。ところが、その子の手はしっかりとにぎったまま開かない。困り果て、安養寺(今の石手寺)に連れていき、祈念をした。そうすると、手から衛門三郎と書いた小石がでてきた。人々は衛門三郎の生まれ変わりと思った。 |
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