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癒しの巡礼/四国八十八カ所

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地図四国霊場八十八カ寺巡り
第七十六番札所 金倉寺
御詠歌/まことにも神仏僧をひらくれば真言加持の不思議なりけり
本 尊/薬師如来
真 言/おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
宗 派/天台寺門宗
開 基/和気道善

金倉寺までのアクセス
善通寺インターチェンジから観音寺市内向きに国道11号線へ。金蔵寺郵便局を左折すると、駐車場あり。約10分。

香川県善通寺市金蔵寺町1160
0877・62・0845

宿 坊/なし 駐車場/あり(200円、50台、境内入口・境内まですぐ)
第七十六番札所 金倉寺
▲兵火の跡が残る鐘つき堂

お寺の場所を地図で見る近辺の宿泊施設一覧

戦禍の爪痕が残る智証大師と乃木将軍ゆかりの札所
歴史・全体像
 この辺りの地域は昔、金倉郡と呼ばれ、智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん)の生誕地として知られている。智証大師は弘法大師の姪を母に持つ、天台寺門宗の開祖。弘仁5年(814)に生まれ、幼少の頃から教典を読んでいた。霊感も強く、今でいう大霊能者だったとか。5歳の頃、大師の前に訶梨帝母尊(かりていもそん)が現れたと伝えられている。仁寿3年(853)には唐へ留学し、天安2年(858)には天台密教を学んで帰国。やがて延暦寺第五代座主となった。
 金倉寺が創建されたのは、善通寺の建立よりもさらに半世紀近く古く、宝亀5年(774)のこと。智証大師の祖父・和気道善が建てたもので、当時は道善寺と称していた。大師が唐から帰国した後、しばらくこの寺に滞在していたという。先祖の菩提を弔うため、唐の青龍寺を模して伽藍を造営し、薬師如来を自ら刻んで本尊として安置した。その後、大師は寛平3年(891)に入寂したが、延長6年(928)、醍醐天皇の勅命により地名をとって金倉寺と改名したと言われている。当時は広大な境内と132坊を有して繁栄していたが、南北朝、戦国時代と度重なる兵火によって全て焼失してしまい、唯一無事だったのは大師が唐へ渡る前に両親に贈った自画像と、本尊のみであった。
 また、明治31年(1898)から約3年間、乃木希典将軍が善通寺第十一師団長を務めた頃、金倉寺の客殿を仮住居にしていたという話は有名。今でも客殿には、乃木将軍愛用の品々が展示されている。
本堂
 仁王門を抜けると、正面に大きく立派な本堂がある。戦乱により焼失してしまったが、再興が繰り返され、現在の本堂は昭和の時代に入ってから改築されたもの。そんな歴史の盛衰とはうらはらに、広大な境内は実に閑静で、本尊の薬師如来も穏やかな表情を見せている。
▲かつての繁栄を取り戻した佇まい
大師堂
 中央にある智証大師像と共に弘法大師像も安置している。この2人は「讃岐の五大師」に数えられており、「大師」の称号を得るということは、僧にとって最高の名誉。「讃岐の五大師」にはこの2人の他、弘法大師と同じ佐伯氏出身の道興(どうこう)、弘法大師の弟子だった法光(ほうこう)、修験道の理源(りげん)の5人のことをいう。
▲住職さんに教えていただいたベストポイントから撮影
ここが見所
乃木将軍遺品展示室
 客殿内にある遺品展示室。愛用品、静子夫人の手紙や将軍の直筆、辞世の句が保存されている。閲覧は非公開だが、9月第1土・日曜に行われる乃木祭で一般公開されている。写真は大師堂の近くにある乃木将軍銅像。また、納経所の近くには有名な「妻返しの松」もある。
ここが見所
訶梨帝堂
 本堂すぐ横にある訶梨帝母尊を祀った御堂。智証大師が5歳の時に訶梨帝母尊が現れ、大師への衛護を伝えたという。訶梨帝母尊とは鬼子母神のこと。500人の子供の母でありながら、いつも人の子供を食べていたので、釈迦如来は鬼子母神が最もかわいがっていた末っ子を隠し、子供を失った母親の辛さを教えた後に仏のひとつに加えたという。

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