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癒しのくに四国
御詠歌/いまの世は大悲のめぐみすごうさんついにはみだのちかいをぞまつ
本 尊/十一面観世音菩薩
真 言/おん まか きゃろにきゃ そわか
宗 派/真言宗豊山派
開 基/明神右京・隼人
大宝寺までのアクセス
松山インターチェンジから国道33号線を久万方面へ。久万警察署を過ぎた次の信号で左折、県道12号線を走る。久万公園前で右折、久万美術館を過ぎて左折。約1時間。
愛媛県久万町字菅生1173
0892・21・0044
宿 坊/あり(要予約) 駐車場/あり(無料、30台、手洗所横・境内まで徒歩約5分)
▲本堂までの石段は急だが、段数はそれほどでもない
歴史・全体像
前の札所、第四十三番明石寺からの距離は実に95kmにも及ぶが、この距離は岩本寺・金剛福寺間に次いで、四国霊場の中でも2番目とか。いわゆる「遍路ころがし」という難所でもあり、参道には樹齢300年にも及ぶ杉や檜が立ち並んでいる。この寺は、3度も火事に遭ったことでも知られる。おこりは大宝寺本尊の十一面観世音菩薩を、百済からやってきた聖僧が携えてきて、山中に安置したことから。それを明神右京、隼人という猟師が発見、草庵にまつった。その後の大宝元年(701)、文武天皇の勅願により寺院が建立され、当時の元号にちなんで大宝寺と名付けられたという。弘法大師が来錫されたのは弘仁年間(810〜824)のこと。ここで密教三密を厳修、第四十四番の札所に定めた。仁平2年(1152)には、失火によって寺は焼失。だが保元元年(1156)、脳の病に苦しむ後白河天皇の病気平癒を願って勅使がやってくる。そのかいあって病が治ったため、天皇は妹宮を住職として下向。勅願寺とした。この時には多額の御寄進を受けて、七堂伽藍の僧堂坊社が再建されたという。2度目の火事は天正年間(1573〜1592)。長宗我部氏の兵火により、伽藍は焼け落ちてしまう。元禄年間(1688〜1704)には、松山藩主の家臣・佃次郎兵衛らの援助で雲秀法師が再興した。
この寺ゆかりのエピソードとしては、寛保元年(1741)に起こった農民一揆がある。久万山の農民3000人が、土地を捨て大洲領内へ逃げてしまった。困り果てた松山藩の役人は、大宝寺の住持・斉秀に説得を依頼。斉秀が全ての農民を帰村させたため、松山藩は150石を寄進。斉秀の労をねぎらった。
明治7年には、三たび失火により堂宇を焼失。この時は地元の人の寄進により、寺を再興する。
後白河天皇の逸話により、病気平癒を祈願する人が多いこの寺。中でも脳の病気についての信仰が厚いことから、近年は受験生の参拝も多いそうだ。大宝寺は八十八の霊場のちょうど真ん中。古色蒼然とした寺の雰囲気を満喫したお遍路さんは、気分も新たに残りの巡礼に出発する。
本堂
山の中にある大宝寺。木々に囲まれた本堂は、青い銅板葺き屋根が美しい。この建物は明治時代の焼失の後、大正時代に再建された。鐘楼は2つあるが、石段を上って右側にある鐘が古いもの。左側の鐘は「平和の鐘」と呼ばれており、これは第2次世界大戦で亡くなった地元の英霊を供養するために建てられたそうだ。
大師堂(御影堂)
本堂の右側にある大宝寺の大師堂は、昭和59年に再建された比較的新しい建物だが、総檜造り、宝珠寄棟銅板葺きの豪壮なもの。一見の価値がある見事な建物だ。
▲大師堂も堂々とした建物
ここが見所
宿坊・山頭火の句碑
境内には昭和60年に完成した宿坊があるが、大師堂と同じくここも内部が総檜造の豪華な建物だ。
一方、境内の片隅には漂泊の俳人・種田山頭火の句碑が。「朝まいりはわたくし 一人の銀杏ちりしく 山頭火」の文字が刻まれている。
仁王門
仁王門は、駐車場から少し山道を下った場所にある。明治7年に焼失したため、昭和31年に再建した。内部には仁王尊を安置している。この仁王門には大きなわらじが吊されているが、これは信者から寄進をうけたもの。門に入りきらないほどの大きさには、驚かずにはいられない。
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